北野的読書日記

岩波文庫を中心に、読んだ本の感想を書いていきます。よろしくお願いします。

「銀河鉄道の夜」宮沢賢治

宮沢賢治の代名詞でもある表題作のほかに、14編の短編が集められています。一つ一つの短編に特徴があり、たくさんの「かわいい」、「おもろい」、「こわい」、「わけわからん」そして「美しい」が詰まっています。 

どれもよいのですが、僕はやっぱり「銀河鉄道の夜」がお気に入りです。
銀河ステーションを出発したあとに繰り広げられる美しい世界はもちろんですが、僕が惹かれたのは主人公のジョバンニやカムパネルラが見せる子ども特有の感覚とその描写です。
いくつか抜粋します。
(同級生に自分の父親をからかわれて)
ジョバンニは、ぱっと胸がつめたくなり、そこらじゅうきいんと鳴るように思いました。
(カムパネルラと列車の中で出会うが、彼が苦しそうな様子なのを見て)
するとジョバンニも、なんだかどこかに、何か忘れたものがあるというような、おかしな気持ちがしてだまってしまいました。
このような文章を紡ぐ宮沢賢治というひとは、子どものこころと、大人として子どもをいつくしむこころを持っているのだろうと感じました。

美しいファンタジーとして有名な「銀河鉄道の夜」ですが、そこに純粋な少年の感覚が混合され、切ないような、胸に迫るような物語となっています。

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)



「ヘンリ・ライクロフトの私記」ギッシング

僕は本の本が好きです。 
例えば読書法の本や、本棚の写真集や、ブックガイドみたいなのが好きです。

「ヘンリ・ライクロフトの私記」はそういった本の中で紹介されていて、ずっと読みたいと思っていました。

なんでも「読書」にまつわる傑作らしいのです・・・。

本著は作者ギッシングの自伝的な作品です。
主人公はずっと日の目を見なかった物書きです。その彼が幸運にも友人の計らいで少なくない額の年金をえられることになり、余生をイングランドの田舎で大好きな読書を楽しみつつ過ごします。
彼の幸運を妬みつつも読み進めていくうちに、読書はこの本の一部ではあるけれども、核となるのはギッシングの哲学・思想であることを感じました。
期待していたのと異なる内容に読書スピードは落ちる一方。夜に読むと心地よい眠りに誘われます。睡魔と戦い、白目をむきながらもなんとか読了しました。
眠くはなりましたが、傑作と呼ばれるのはわかりました。この「私記」の全体を通して作者の社会や人への温かいまなざし、英国への愛情、そして読書の喜びが伝わってきました。
最後に僕が好きな箇所を引用します。「孤独」についての考え方で、すごく共感しました。
 すべての人は定められているのだー「なんじ独りいくべし」と。この人間の運命を逃れえたとうぬぼれている人々は幸福である。そううぬぼれている間だけでも幸福である。しかし、このような幸福に恵まれなかった者は、少なくとも、もっとも痛切な幻滅の苦しみから免れることができよう。どんなに不快であっても真実と対決することは常によいことではないだろうか。きれいさっぱりと無益な希望を捨てた心は、その代償として日ごとに澄みきってゆく平静さをうることができるのである。とに澄みきってゆく平静さをうることができるのである。

ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫)


「若きウェルテルの悩み」ゲーテ

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」です。
小学生のときに読んだ、手塚治虫先生の「火の鳥」の中でこの本が引用されていました。「どんな話なんだろう・・・」それから20年、ついに読みました!!思っていたとおりのストーリーと思っていたとおりの結末でした!!
主人公のウェルテルは美しい女性ロッテに恋をします。それだけであれば「悩む」必要はないのですが、そのロッテはいいなずけと結婚してしまいます。そこからウェルテルの苦悩はどんどん深まり、彼女への恋心は醜くただれ、いつしか彼を狂気へと駆り立てていきます。
物語はウェルテルの視点で語られていきます。恋の喜びが嫉妬の苦しみや他者への恨みに変わって、主人公が狂気の淵へ落ちていく過程は、恋愛小説というよりもホラー小説です。
彼のことを愚かだと思う自分がいる一方、彼の痛みを自分の痛みとして感じている自分がいます。

若きウェルテルの悩み (岩波文庫)


「君たちはどう生きるか」吉野源三郎

本屋で平積みされていて、目に止まったのがこの本との出会いです。池上彰さんがテレビで紹介したりして、結構知られるようになっていたようです。結果、平積みされ、この本と出会うことができました。

僕はこの本が大好きです。おそらくこれからの人生の中で何度もこの本を開くことになるでしょう。素晴らしい本に出会うととても幸せな気持ちになります。

この本は少年少女に向けて書かれたものです。なのでとても平易で、わかりやすい文章で作者の思いが綴られています。わかりやすいのですが、その内容は非常に哲学的で、最終的には生きていく意味について考えさせられる内容となっています。

主人公は中二男子の本田君です。あだ名は「コペル君」。なぜこのあだ名がついたのかはとても重要な意味を持っています。
いくつかのエピソードが納められていて、そのどれもが素晴らしいです。
その中で僕が一番好きな話をひとつ。

コペル君は親友が暴力を受けていたのに、こわくて親友を助けることができませんでした。後悔で苦しんでいるコペル君に対して彼のお母さんは自分の経験を話します。
お母さんも若かった頃に困っている人を助けなかった経験があること…
そのことが今でも心に深く根を張り、ときどき当時の記憶や後悔が蘇ること…
しかし、お母さんは「助けなかった後悔」をネガティブには捉えていません。

お母さんの言葉には人間の優しさや強さがはっきりと現れています。そしてそれは、作者が若者たちに伝えたかったことなのだと思います。

あの石段の思い出がなかったら、お母さんは、自分の心の中のよいものやきれいなものを、今ほども生かして来ることができなかったでしょう。人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰り返すことはないのだということもーだから、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしてゆかなければいけないのだということも、あの思い出がなかったら、ずっとあとまで、気がつかないでしまったかも知れないんです。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

「孫氏」

孫子」は春秋時代に書かれた中国の兵書です。最近本屋のビジネス書コーナーで関連本がよく置かれているような気がします。ちょっとしたブームなのかもしれません。

読んでみました。

結論から言うと、なんだかあんまり入ってきませんでした。
兵書なので、人を使う立場の人にとっては目からウロコなことが書かれてあるのかもしれませんが、特に操る人もいない僕には全く響きませんでした。
孫子」がつまらないと言っているのではなく、33歳の僕には響かなかったということです。部下がいるようは人にはおもしろく読めるのかもしれません。しかし悲しいかな僕はぺーぺーなので…

なるほど、と思うことも確かに書いてありました。
例えば、
(和訳)「戦闘しないで敵兵を屈服させるのが、最高にすぐれたことである」
とか
(和訳)「智者の考えというものは、[一つのことを考えるのに]必ず利と害をまじえ合わせてかんがえる。利益のある事にはその害になる面も合わせて考えるから、仕事はきっと成功するし、害のある事にはその利点も合わせて考えるから、心配ごとも解消する。」
とか、仕事で使える考え方かもしれません。

ただ、自分の上司にはあんまり「孫子」に心酔してほしくないです。

(和訳)「(自分の)軍をどこへも行き場のない状況の中に投入すれば、死んでも敗走することがない。」
そんなとこに放り込まれたくないです。

新訂 孫子 (岩波文庫)

「濹東綺譚」永井荷風

永井荷風の「濹東綺譚」です。
以前に、僕が好きなエレファントカシマシの宮本さんが雑誌の中で「荷風はすごい」と言っていて、興味を持ったのが、この本を読むきっかけです。古本屋で買ったのが5年前、それからずっと本棚でひっそりしていたのを、「あ、これ岩波文庫やん」ということで日の目を見ることとなったのです。

話のあらすじです。
主人公は、60歳近い小説家です。彼が25、6歳の娼婦に恋心のようなものを抱きます。彼女も同じ気持ちを抱きます。娼婦は主人公に「一緒になりたい」と伝えますが、主人公は「僕は若い彼女にはふさわしくないし、彼女が思っているような男でもない」と考え、娼婦のもとにも通わなくなります。
で、おしまいです。
そのことが関東大震災後の浅草や銀座の風情、季節の移り変わり、そして頻繁に現れる「ドブ蚊」とともに描かれています。ちなみに「ドブ蚊」はすごく出てきます。彼らの羽音まで聞こえてきそうです。

あらすじだけ読むと、ひどい話だと思います。老いらくの恋で、不快感を覚える人もいるかもしれません。
しかし、僕は読み終わったあと、何か「すごい話」を読んだような気になりました。この物語のどこからその印象が生まれるのか、巻末の竹盛天雄氏の解説を読んで、やっとその「仕掛け」がわかりました。
解説の解説をするのは野暮なので、このへんにしときます。
気になった方はご一読を。180ページくらいで薄いし、文字も大きいし、挿し絵も多いし、読むのに時間はかかりません。

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

papyrus (パピルス) 2008年 04月号 [雑誌]

「遅読のすすめ」山村修

「遅読のすすめ」山村修 新潮社

岩波文庫ぢゃないぢゃないか!
はい、新潮社の単行本です。

毎日30分、ちゃんと岩波文庫は読んでます。それ以外の時間に読んだ本です。

少し前から「速読」がはやっていますが、あえての「遅読のすすめ」です。


冒頭で夏目漱石の「我輩は猫である」からの引用があります。引用の引用をします。

呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。

ゆっくり読まないと、こんな素晴らしい文章を見落としてしまうよ、というのが著者の意見です。速読推進派への皮肉を交えながら、著者が遅読する中で巡り会った文たちを引用しつつ、読書の楽しみについて述べられています。

僕はちょっと前まで速読的な読書の仕方をしていました。しかし、自分の中に何かが残ったという感じがせず、何よりも読んでいて息苦しく感じました。なのでこの「すすめ」には賛成です。評論家じゃないんだから、読書はゆっくり味わいながら楽しむのが一番だと思います。

実は数年前に「猫」は読んだのです。しかし、先の文章、全く読んだ記憶がありません…。きっとサラッと速読してしまったのでしょう。

呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。

こんなに美しく、寂しく、人生そのものじゃないかという文章に触れながら、心に何も残っていないというのは何とも情けない話です。

しょっぱなで「猫」を引用しているということは、それだけ著者がそこから何か感じた、伝えたかったということだと思います。僕もこの漱石の編んだ文章にじーんときましたので、それだけで著者への親近感がすごく湧きます。同じものを読んで、そこから何か感じる人には親しみを覚えるのです。

人の数だけ読書との関わり方があるのだなと感じます。
「遅読のすすめ」の終わりの方で、社会人となってからは学生時代のような読書はできない、とあります。確かにそのとおりだと思いながら、高校、大学の頃を思い出して、戻らぬ日々に寂しさを感じます。引用します。日々の暮らしと、読書の関係性についてです。

社会に出ると、もはやしあわせな読書生活などというものはない。そもそも本を読めるにせよ、一日の全体からすれば、ごくわずかな時間のことである。本に中毒などしている暇はない。もしもそういうことへのあこがれがあるとすれば、それを断ち切ってからでないと生活人の日常がはじまらない。
しかしそれでもなお、あるいはそれだからこそ、ときとして読書のうれしさが身の内に迫りあがってくることがある。


僕にとっての読書って何だろう…この本を読み終わって考え込んでしまいました。遅読のすすめ

遅読のすすめ