北野的読書日記

岩波文庫を中心に、読んだ本の感想を書いていきます。よろしくお願いします。

「遅読のすすめ」山村修

「遅読のすすめ」山村修 新潮社

岩波文庫ぢゃないぢゃないか!
はい、新潮社の単行本です。

毎日30分、ちゃんと岩波文庫は読んでます。それ以外の時間に読んだ本です。

少し前から「速読」がはやっていますが、あえての「遅読のすすめ」です。


冒頭で夏目漱石の「我輩は猫である」からの引用があります。引用の引用をします。

呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。

ゆっくり読まないと、こんな素晴らしい文章を見落としてしまうよ、というのが著者の意見です。速読推進派への皮肉を交えながら、著者が遅読する中で巡り会った文たちを引用しつつ、読書の楽しみについて述べられています。

僕はちょっと前まで速読的な読書の仕方をしていました。しかし、自分の中に何かが残ったという感じがせず、何よりも読んでいて息苦しく感じました。なのでこの「すすめ」には賛成です。評論家じゃないんだから、読書はゆっくり味わいながら楽しむのが一番だと思います。

実は数年前に「猫」は読んだのです。しかし、先の文章、全く読んだ記憶がありません…。きっとサラッと速読してしまったのでしょう。

呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする。

こんなに美しく、寂しく、人生そのものじゃないかという文章に触れながら、心に何も残っていないというのは何とも情けない話です。

しょっぱなで「猫」を引用しているということは、それだけ著者がそこから何か感じた、伝えたかったということだと思います。僕もこの漱石の編んだ文章にじーんときましたので、それだけで著者への親近感がすごく湧きます。同じものを読んで、そこから何か感じる人には親しみを覚えるのです。

人の数だけ読書との関わり方があるのだなと感じます。
「遅読のすすめ」の終わりの方で、社会人となってからは学生時代のような読書はできない、とあります。確かにそのとおりだと思いながら、高校、大学の頃を思い出して、戻らぬ日々に寂しさを感じます。引用します。日々の暮らしと、読書の関係性についてです。

社会に出ると、もはやしあわせな読書生活などというものはない。そもそも本を読めるにせよ、一日の全体からすれば、ごくわずかな時間のことである。本に中毒などしている暇はない。もしもそういうことへのあこがれがあるとすれば、それを断ち切ってからでないと生活人の日常がはじまらない。
しかしそれでもなお、あるいはそれだからこそ、ときとして読書のうれしさが身の内に迫りあがってくることがある。


僕にとっての読書って何だろう…この本を読み終わって考え込んでしまいました。遅読のすすめ

遅読のすすめ